白萩鐶 Original Novel WebSite "猫がいってしまったので 1.1"
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桜宵 

薫は桜が好きだ。
花びらのひとつひとつはあんなに淡いのに、霞の様に舞い咲く花々は不思議な程に紅い。特にほんのりと街灯に照らされた夜桜の美しさは、幻想的だと思う。
だからこの季節、桜の咲くこの季節だけは、ひとつ手前の駅で降りて、川沿いの道を歩いて家に帰る事にしていた。普段はひとけのない住宅街で少し不気味な感じのする道で、痴漢やひったくりを警戒する事もあって通らないのだけれど。
この季節は川面に垂れるように、堤防沿いに植えられた桜の花々が、それはそれは奇麗だから。

今日も少し遅くなったけれど、それでも今がまさに満開の桜が見たくて、薫はひとつ手前の駅で降りた。
少し歩けばすぐに川にあたる。あまり手の入っていない草だらけの堤防にも、駅に近いあたりには花見をする集団がいた。敷物に弁当やつまみ等を広げ、賑やかに騒ぐ彼らは、付近の住民にとってはさぞかし迷惑であろうが。それも一年にたった10日程であれば、我慢もできるのかもしれない。
駅近くのコンビニで買ったペットボトル入りの紅茶をすすりながら、薫はのんびりと堤防沿いの道を歩いていった。車もほとんど通らず、少しずつひとけも少なくなっていくが、時折犬の散歩やジョギングをする人等が通り過ぎる。
桜は、美しかった。

堤防沿いに植えられた樹々はほとんどが染井吉野で、時折枝垂れ桜や、白い花びらの大島桜が混じっている。
さして広くもない蛇行した川面に、淡紅の花びらが映る様はため息が出る程に奇麗で。
地元の商店会がとりつけた「桜まつり」の電灯のぼんぼりさえなければもっといいのに。薫るは独りごちた。しかし、その無粋なぼんぼりの灯りが、淡く桜を浮かび上がらせる様にも見える。
「奇麗ねぇ……」
「本当にねぇ……」
誰にともなく呟いた感嘆に、応える声があった。あまりに驚いて金縛りのように体を強ばらせた薫に、続くのは笑い声。
くっくと喉を詰まらせる様なそれは若い男のものだった。
「すみません、脅かして」
笑みを含んだまま声が続けた。薫はばくばくと騒ぐ動悸が静まらないまま振り向く。そこには細めの背の高い男が立っていた。
(芸能人かな?)
そう思ったのは、際立って整った顔と真っ白に脱色した髪のせいだ。酷く目立つ白い髪は襟足を少し隠すくらいのショートカット。ほっそりとした体つきも相まって、バンド関係の人の様に見えた。流行のドラマに出てる俳優にも似てる様な気もする。
ぼんやりと見とれていると、彼が喋った。
「桜の毒に、気をつけないと」
「え? 毒?」
意外な言葉に聞き返すと、彼は歩み寄ってくる。思わず後ずさりそうになった薫に、ふいと桜を指差した。
「宵桜は毒を放っているから。気を抜いて見とれていると、魂まで奪われてしまいますよ」
つられる様に指差された方を見れば、夜の闇に浮かび上がるように咲く、桜。
「本当……?」
無粋なぼんぼりに照らされた川面がゆらゆらと光り、堤防に斜めに生えた枝垂桜がその枝先を浸している。やや濃い紅色と、それを取り囲むかのような染井吉野の淡紅。
薫は、ほうと溜息をついた。
「魂まで、奪われてみたいかモ」
「そうですか?」
「ええ……」
ぼんやりと並んで桜を眺めながら、言葉遊びの様に呟いた刹那だった。

「……それは嬉しい」
嬉しげな声と共にふわりと腕が巻き付いて来た。白い長袖のコットンのシャツから淡く鼻を翳める汗の匂いと、横から抱きすくめられ、合わせられる唇。
「ちょ……まっ…!」
混乱しながらもその腕から逃れるべく身をよじる。しかし抱きすくめる腕は思いのほか強く、細身ではあっても男の腕である事を実感して、恐怖が這い昇る。
「やっ……!』
悲鳴をあげようと開いた唇に、ぬる…と舌が潜り込んでくる。抱きすくめられたままズルズルと運ばれる体に、パンプスの踵が地面を擦って脱げた。ぱこんと間抜けな音を立てて落ちた靴を残して、堤防の斜面の、未だ短い草の上に倒される。
「……んんっ!」
再びあわせられる唇に、悲鳴が爆ぜる。それとも薫の抵抗が自分で思っている程激しくはないのか。恐怖ですくんでいるからか。
口腔を探る様に動き回る舌を、思い切って噛んでやろうとしたとき、顔が離れた。草の上に薫を押し倒し、その上にのしかかって男は薫の顔をじっと覗き込む。
「嫌ですか?」
「だって…あたりまえでしょ!?」
混乱と恐怖と、のしかかる男の重みに喘ぎながら、応える薫の声がうわずった。痴漢、強姦。脳裏を駆け巡るそのフレーズと、降り掛かる男の声と態度とが、あまりにもそぐわなくて、薫の混乱に更なる拍車をかける。
「本当に嫌なら、人を呼べばいいんですよ。悲鳴を上げて、助けを求めて叫べば、誰かが来てくれるはずです」
いきなり人を押し倒しておきながら、ゆったりと、酷く優しげに彼が囁いた。少し背を反らせる様に顔の脇に肘をついて、指が薫の乱れた髪をかきあげる。そのまま頬を撫で顎を撫でる様はまるで、恋人同士がいちゃついているみたいで。
『抵抗すれば殺す』なんて脅されて手酷く押さえつけられたなら、あるいはがむしゃらに抵抗できたかもしれない。しかし、薫を堤防の斜面に連れ込んだその時を除いては、男の態度は優しくて、今なら恐らく逃げようと思えば逃がしてくれそうな程に。
薫は至近の距離から己を見つめるその顔をまじまじと見つめた。
「……」
見下ろす顔はとても奇麗で見とれるくらいだ。頭のおかしい変質者って訳でもなさそうだし、話し方も優しいし、落ち着いた感じも悪くない。白い髪が異質だけど、決して嫌いなタイプじゃないのに。
「貴方なら……こんな事しなくても…こんな場所で…こんな風に……」
暴力的に強姦される恐怖が多少緩んでみれば、薫が零したのはそんな言葉だった。
「すみません、でも俺には時間がないんです」
本当にすまなそうに眉を下げて、男は薫の目尻に唇を落とす。じわりと滲んだ涙を、ちゅ、と音を立てて吸い。頬を顎を食むように唇が滑る。柔らかな愛撫。
男の白い髪が、その背後を覆い尽くす桜の花に溶けるような錯覚。桜の花々を通して落ちるぼんぼりの薄明かりが、川面が反してゆらゆらと揺れていた。
「それに、ここでないと駄目なんですよ。 この桜の木の下でないと」
「変態ねっ」
「そうですね」
おどけるつもりで出した声はうわずってしまったが、彼はそれに笑み含みに応えた。
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